1963年の信越本線横川〜軽井沢間粘着運転開始に伴い、同区間における牽引・推進用に製造された機関車である。同時期に製造されたEF62形と兄弟機であり、EF62形が碓氷峠区間を含む本務機であったのに対しこちらは碓氷峠区間専属の補機として設計された。EF62形とは協調運転を行うことが前提となっていたことから、主電動機はEF62形と同じものが採用され(尚、以降の車両もしばらく同じ主電動機が採用された)、電動カム軸による自動進段制御やバーニア制御等、EF62形で採用された機構を本機も採用し、また当初より誘導無線を備えている。車体は前面に貫通扉を付けたスタイルだが、こちらは2軸ボギー台車となっている他EF62形と比べて直線形状となり、特に前面窓が傾斜している点や側面に大型蓄電池の搬入口が付けられていることが特徴である。本機は客車や貨物列車のみならず、最大傾斜66.7‰の碓氷峠を通る全ての列車に充当されることから、同区間用の特殊な装備がいくつも備わっている。具体的には、急坂でも停止状態を維持できるよう電磁吸着ブレーキを備えたり、万一の滑走に備えた過速度検知装置や電機子短絡スイッチなどが挙げられる。また、連結器は両エンドとも双頭連結器を備え、更に客車のみならず電車や気動車とも連結すべくジャンパ栓が何種類も備えられた。これらを全て搭載することで、新性能直流電機としては最大重量となっている。また、後に同機と協調運転が可能な169系・189系・489系が開発されたが、これによって最大12両の編成が碓氷峠を通過できるようになり、それまで最大8両であった同区間の輸送量は飛躍的に増大する事となった。1962年に量産先行機、1963年以降に量産機が投入され、同年9月にアプト式区間が廃線となると碓氷峠における補機は全てEF63形となった。1974年までに23両が製造された後、1975年に2両が事故廃車となって2両が代替新製され、国鉄時代は終始23両の陣容であり、専ら重連で牽引・推進にあたった。国鉄民営化に際しては21両がJR東日本に継承されており、引き続き横川運転区に在籍して碓氷峠における牽引・推進に使用されて「峠のシェルパ」の愛称で親しまれてきた。製造から検査時を除いて同区間を離れる事はなく(車両検査は大宮で行っていた)、30年以上に渡り同区間の顔として使用されてきたが、1997年9月末に長野新幹線開業に伴って碓氷峠区間が廃止されると全車両がお役御免となった。翌年までに全車廃車されたが、同機は碓氷峠を象徴する存在であり、それ故碓氷峠鉄道文化むらを中心に、実に半数近くの車両が保存されるに至っている。中でも保存機のうち4両は動態保存されており、特筆事項となっている。 2012,08,23 碓氷峠鉄道文化むら |
■Variation |