ED42形
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 1933年登場。初期に製造されたEC10形等の老朽化による車両置き換え等を目的に投入されたアプト式電気機関車である。アプト式大型機関車のプロトタイプとして1927年に導入されたスイス製の機関車ED41形に類似した車体となっており、車体長12.8mの箱型車体の機関車となっているが、こちらは主に前面の形状が変更されている他、電装品も含めて全て国内で製造された。国産機関車は、アプト式機関車としてはED40形以来14年ぶりである。またED41形とは制御装置が変更されており、初期不良の多かった電動・電磁空気カム軸接触器ではなく、電空単位スイッチ式となっている。従来機同様、運転台は第2エンド側(横川方)にのみ取り付けられており、第1エンド側(軽井沢方)は形状こそ似ているものの運転台は備えていない。長期に渡り増備された本形式は、22号機までと23号機以降の2種類に大別される。後者は所謂「戦時型」と呼ばれるもので、戦時下という時勢を反映して車体や電装品の簡素化がなされており、ルーバーの形状が変更される等外観においても差異が生じている。ED42形は戦後の1946年に至るまでに28両が製造されており、増備の途中でED40形をも置き換え碓氷峠における機関車の主力機となった。各列車では専ら下り列車では軽井沢方に1両、横川方に3両のED42形を連結し、上り列車では4重連にて走行し、それぞれ360tまでの牽引・登坂に対応した。尚、ED42形は粘着運転時には25km/h、ラックレール区間では18km/hでの走行に対応していた。戦中戦後期において碓氷峠の鉄道輸送に大いに貢献したED42形だが、1951年以降には電力回生ブレーキを装備し、主に降坂時における省エネに一役買うなど後天的な改造を施されつつ長い間活躍し、特に1951年以降の碓氷峠はED42形の独擅場となっていた。しかし戦後の輸送力増強の中で、編成及びに制限があるアプト式区間は信越本線におけるボトルネックであることは否めず、1963年に粘着式の新線を建設して従来のアプト式区間は廃止されることになった。1963年7月からしばらくは新旧線が併存されたため、新たに投入されたEF63形等との共存も見られたが、同年9月末でアプト式区間は廃止され、これを以てED42形は全車が余剰となり同年中には全車廃車されている。このうち1号機と2号機が静態保存されており、特に1号機は準鉄道記念物に指定され、一時期はヨ3500形と併せて動態保存されていた。現在は1号機が碓氷峠鉄道文化むら、2号機が軽井沢町の小学校にそれぞれ静態保存されている。

 2012,08,23 碓氷峠鉄道文化むら