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1972年登場。1973年に開港予定であった成田空港へのアクセス輸送用に製造された、京成電鉄では1600形以来となる本格的な特急型車両である。車体は18m級の普通鋼製車体で、パノラミックウィンドウを採用した流線形という、航空機を意識したようなデザインとなっているのが特徴である。排障器はステンレス製で、これは京成電鉄で初めて採用されたものである。デッキ付きの片側1扉で、側扉は2枚折り戸が採用されていた。当初の編成は4M2Tの6両で、将来的に8両や10両で運用されることも想定している。制御方式は特急型車両としては珍しく界磁チョッパ制御方式が採用されているが、この制御方式を採用したことにより、50km/.h以上という条件限られるが、任意の時速を保ちながら走行できる定速運転が可能となっている。この定速運転は曲線区間の多い京成本線を経由しながらも上野〜成田空港間を60分で運転する走行性能が求められたことから実装されたもので、これに加えて曲線の改良も行われたことで、ノンストップ運転ではあるが同区間の60分運転を実現した。登場時の塗装はかつての1600形をイメージした茶色とクリームのツートンカラーであったが、1983年からは塗装変更が施され、現在の京成電鉄における標準塗装の原型ともいえる塗装に改められた。車内は登場当初は回転クロスシートで、当初はレザー張りで後にモケット張りになった。壁面を木目調としており、落ち着いた風合いの内装となっていた。また、旅行客用に大型荷物置き場を車端部に備えた他、当初より自動放送装置を備えていた。なお、サニタリースペースは編成内1か所に設けられている。本形式は1972年中に6連5本が製造され、翌年の営業運転開始を予定したが、開港は延期となりしばらくは運用に就くことができず新造車ながら留置されることを余儀なくされた。1973年末から暫定的に上野〜成田間の有料特急として用いられたが、本領発揮とは出来ず、しかも放火事件により全焼してしまう車両も出てしまうなど、1974年にブルーリボン賞を京成電鉄で初めて受賞したその経歴と裏腹に、その前途は極めて多難であった。ようやく1978年に成田空港が開港し、同時に空港直結特急「スカイライナー」として本領を発揮することとなるが、当時の成田空港駅はターミナルから離れており、駅からターミナルまでのバス移動を強いられたこともあり、不調であることに変わりはなかった。なお、1978年に6連2本が増備され、7本の陣容となった。しばらく空港内でのバス連絡を強いられ不調であった「スカイライナー」だが、1991年からは空港直下に新線を建設し同地に乗り入れることが決まり、先んじて1988年からは座席の改座がなされ、回転リクライニングシートに改められた。また編成両数を8両に増強することになったが、編成増強は既に後継車AE100形の導入が既定路線であったことから本形式の増備ではなく組み換えで行われることになり、一部制御車の中間車化を伴う大規模な改造が施された。これにより6連7本から8連5本に組み替えられ、余剰となった2両は1990年に廃車され、これがAE形の廃車1号となった。1991年3月のダイヤ改正以降本形式も成田空港直下に乗り入れるようになり、晴れて空港連絡特急の面目躍如となったが、残る8連5本も安泰ではなく、AE100形の増備により置き換えが進むこととなった。最後まで残ったAE61編成は1992年以降予備車として残存したが、1993年6月にさよなら運転が行われて運用を離脱している。なお、自動放送はAE100形導入後は同系列に準じた放送が行われていた。運用離脱後は大半の車体が解体され、同型の走行機器類を流用して車体を新製した通勤型車両3400形にバトンを渡すことになった。現在、AE61号車が宗吾車両基地内で静態保存されているが、オリジナルの台車は3400形に流用しているため、3050形(初代)の発生品であるコイルバネ台車を搭載する。
2023,10,28 宗吾車両基地 |