ク5000形
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 高度経済成長期を迎えた日本では、全国的に自家用車の需要が急速に高まりつつあり、車両メーカーから全国各地への効率的な自家用車の輸送が求められていた。この当時は現在のような高速道路網が殆ど存在しなかったこともあり、鉄道での自家用車輸送は充分なニーズがあった。昭和30年代の時点では、無蓋車や有蓋車に搭載するもしくは一部メーカーが専用の私有貨車を開発し搭載する等の手法がとられたが、いずれも総合的に輸送効率が高いとは言えない代物であった。そこで、車種を問わず汎用的に使用でき、かつ大量輸送が可能な貨車として、既に欧米で導入されていた自動車運搬用貨車を参考としつつ、自動車メーカーの意向も取り入れて開発された形式がク5000形である。先行試作車であるク9000形(初めて車運車の「ク」という形式を採用した貨車、試験後にク5000形に編入)での試験を経て、1966年から量産が開始された。車体は全長20.5mで、2層構造となっており最大12両もの自動車を積載できた。それまでの私有貨車では荷役方法が形式により異なっていたが、本形式ではスロープを介し、自動車の自力走行で荷役を行う手法をとった。自動車は備え付けられたガイドレールに沿って移動できる他、車端部には渡り台が設置されており、渡り台を介して隣の車両まで自走することができた。荷役で用いるスロープは拠点により専用のホームに据え付けられたものと、スロープ自体を自走式としたものが用意された。移送時に車が転動しないよう固定する緊締装置は構造が簡素化され、前述のガイドレールの幅を拡大することで、車種を問わず自動車が積載できるようになっている。なお、機関車などから発生する錆等の飛散防止の観点から保護用のシート及びその置き場所も設けられたが、このシートに限っては車種ごとに専用のシートが奢られた。製造当初の塗装はイメージアップを図る目的もあり、他の貨車とは一線を画す朱色3号の一色塗りであった。元々自動車輸送では最高時速100km/hでの輸送が構想されていたが、本形式は汎用性を持たせるためコキ5500形等と同等の台車を搭載し、最高時速は85km/hとなっている。ク5000形は1966年10月から本格的な運用を開始し、大半の自動車メーカーで本形式を用いた自動車輸送が行われた。自動車の搬出入に用いる敷地が必要なことから、全ての貨物駅が本形式での輸送に対応しているわけではなかったが、車種を問わず効率よく輸送可能な本形式は当初自動車メーカーからも人気を博し、一時は全ての自動車メーカーが本形式による貨物輸送を行っていた。一般貨物列車に連結するだけでなく、本系列のみで専用貨物列車を組成し、「アロー号」という愛称までつけられるほど、一時の国鉄貨物輸送においては花形と呼べる存在となっていた。本形式は緊締装置の軽量化などのマイナーチェンジをしつつ1973年までにク9000形として製造された車両も含め932両が製造されたが、1972年以降は国鉄の運賃値上げやストライキ、オイルショック、更にはモータリゼーションの進展によるカーキャリアの発展等複合的な要因から自動車メーカーの国鉄離れが進んだことで本系列を用いた貨物列車は運用が激減してしまい、大半の車両が運用を離脱し放置されるという憂き目に遭ってしまった。鉄道を用いた自動車輸送は減少の一途をたどり、1985年には本形式を用いた自動車輸送は一度途絶えてしまうが、翌年に日産自動車のみ本形式の自動車輸送が復活し、日差栃木工場と本牧ふ頭を結ぶ輸出自動車輸送を基調に、国内向けの自動車輸送も再び行われるようになった。国鉄分割民営化に際しては64両がJR貨物に継承された他、一度国鉄清算事業団に引き継がれた39両を再度車籍復活させたことで、93両がJR貨物の所有となった。この際、塗装が日産自動車のコーポレートカラーであるトリコロールカラーに塗り替えられた。なお、引き継がれずに除籍された車両の台車は一部がセキ8000形やクム80000形等他形式に流用されている。JR移行後は青函トンネルを経由し北海道にも乗り入れる等、それまでにない範囲での運用もみられたが、自家用車自体の大型化が進み本形式に積載できなくなっていたこと、製造から30年近く経過し経年を迎えたことから、1996年までに本形式を用いた自動車輸送は完全に終了となり、JR継承車も同年中までに全車廃車された。現在、ク5902号車のみ宇都宮貨物ターミナル駅での留置を経て那珂川清流鉄道保存会で保存されている。車運車として残存している車両は本車1両のみであり、非常に貴重な存在である。

 2017,06,24 那珂川清流鉄道保存会


2025/07/22