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日本における鉄道の黎明期にあたる1880年に、官営幌内鉄道により北海道最初の鉄道が開通して以降、寒冷地についても鉄道路線網の形成が続いたが、厳冬期における輸送安定化は当初からの課題であり、開業間もない頃から除雪を目的とした車両が配置されていた。明治期には既にラッセル車が輸入ないし製造され、冬季の除雪に用いられていたが、豪雪地帯を始め雪の多い地方ではラッセル車だけでは除雪能力が不足することがままあった。このような線区向けに、線路上の雪を吸い寄せ、遠方に投雪することで除雪能力を高めた車両をアメリカから輸入することになり、1923年にアメリカのアメリカン・ロコモティブ社で製造された除雪車を2両輸入したが、この車両を当初ユキ300形と称した。当時アメリカで用いられていた除雪車をベースとしつつ日本の雪質に適応するよう設計変更がなされているが、前述のとおり遠方に投雪することを目的としており、前面に大きな羽根車が取り付けられ、それを回転させることで遠方への投雪を可能とした。このような形態の除雪車をロータリー車と称し、本車は日本国内におけるロータリー車の嚆矢である。羽根車を回転させる動力は蒸気機関であり、車両に蒸気機関車と同様のボイラーを備え、発生する蒸気を羽根車の駆動に用いた。投雪する方向や投雪の距離は羽根車の回転数や回転方向、羽根車と合わせて取り付けられている案内翼を調節することで変更することができた。本形式に搭載される蒸気機関はあくまでも羽根車の回転用であり、動力には用いられていないが、多量の石炭等を必要とすることから、テンダー機関車のように炭水車も連結した(アメリカから輸入された車両も、炭水車は輸入されず廃車された蒸機の発生品を流用している)。ボイラー、蒸気機関を積載することもあり、台車の軸配置はロータリーヘッド側が3軸、炭水車側が2軸というボギー構造となった他、自重は炭水車も含めると80t前後もあった。ユキ300形は前述のとおりアメリカから2両が輸入され、1928年に形式がキ300形に改称されている。当初の2両こそアメリカから輸入したが、その後は国産でキ300形を増備することになり、羽根車の数や炭水車の構造などの仕様変更を加えながら1928年から1940年までに14両が製造され、計16両の陣容となった。なお、1941年の称号改正により、形式がキ600形に再度変更されている。本車は自車の幅以上の雪を投雪することができないことから、特に豪雪時には、先行して「マックレー車」という除雪車で線路中央に雪をかき集め、それを本車で投雪するという手法がとられた。当初はそれぞれ独立して走行していたが視界不良時の追突が生じたこともあり、1940年以降は「機関車+マックレー車+ロータリー車+機関車」で1つの編成を組成するようになり、これを俗に「キマロキ編成」と称した。除雪作業の機械化に貢献し、積雪の激しい場合は更にラッセル車を編成する等したが、機関士、機関助士や保線要員など、一度の運行に数十人の労力が必要であった。本形式は前述のマックレー車と共に、敦賀以北で特に積雪の多い地域に配置され、豪雪時を中心に除雪に従事した。なお、本形式を含め除雪車は最高時速が65km/hとなっており、所謂ヨンサントオと称される1968年のダイヤ改正に際して貨車の最高速度引き上げが行われた際は、識別のため黄色1号の帯が巻かれている(従前は黒一色、またその時点で廃車になっていた車両には施工されていない)。蒸気機関を用いているため、運行に機関士や機関助士が機関車とは別に必要であり、蒸気機関車の淘汰にあわせて車両数が漸減した他、1機でマックレー車の機能も有するロータリー式除雪ディーゼル機関車やモーターカーの台頭も、本形式の縮小に追い打ちをかけた。最終的に蒸気機関車が全廃となる前年の1974年に全車廃車されている(落成時樺太に配置された1両は終戦後ソ連に接収され、比較的後年まで用いられていた模様)。現在もキ601号車が小樽市総合博物館、キ604号車が名寄市北国博物館にそれぞれ保存されており、その特徴的な姿を見ることができる。なお、いずれも準鉄道記念物に指定されている。
2014,06,27 小樽市総合博物館 |