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古くから交通の難所であった群馬、長野県境の碓氷峠は、1893年に鉄道が開業してもなお非常に急な勾配を抱える難所であり、この区間を克服するために開業当初よりアプト式が採用され、麓の横川機関庫には専用の蒸気機関車が配置されていた。しかし碓氷峠を跨ぐ横川〜軽井沢間のみで所要時間が1時間を超えていた他、当時26か所あったトンネル内の煤煙により乗客、乗務員が窒息することがしばしばあり危険な状態であった。蒸気機関車時代から煤煙防止はある程度考慮されていたが、この状況の改善を図るため、1912年には碓氷峠の区間のみ他所に先駆けて電化されることになり、専用の機関車が配備された。この時に配備された機関車が10000形電気機関車で、国鉄では初となる電気機関車である。本車はドイツで製造され、アルゲマイネとエスリンゲンの合作となっている。車体は全長9.6mで、蓄電池等を格納したボンネットを両端に備えた凸型車体となっている。前面は3枚窓で、左右は所謂丸窓となっている他、前面中央・側窓・ルーバーは上部がRを描いた優美な形状となっている。碓氷峠区間はトンネル断面の関係から第三軌条方式が採用されたが、横川、軽井沢両駅構内はポイントや感電防止から架線集電となり、複数の集電装置(ポール及び集電靴、ポールは後に菱形パンタグラフに換装)を備えている。動輪は3軸で、主電動機からの動力をジャックシャフト、サイドロッドを介して伝達していた。車体には定格出力210kwの主電動機を2基搭載しており、前述の動輪伝達用の他、もう1基の主電動機はラックレールとかみ合うラック歯車の駆動に用いられた。また本形式では複数両を連結しての運行を前提としていたことから、当初よりジャンパ連結器と重連総括制御機構を備えていた。これらの装備により、全長10m弱の小型機関車ながら軸重は後のF級機関車よりも多い16t超となっていた。10000形は12両が輸入され、1912年の横川〜軽井沢間の電化開業時より使用を開始した。電化および本機関車の導入により碓氷峠区間(横川〜軽井沢間)の所要時間は蒸気機関車時代から大幅に短縮されて、煤煙の問題も解消された。なお、本形式では既存機関車の一掃とまではいかず、完全な置き換えは1919年のED40形製造まで待たれることとなる。なお、当初は両運転台構造であったが1914年以降軽井沢方の運転台が撤去され片運転台構造となり、跡には主電動機冷却用の送風機が設置された。1928年の称号改正によりEC40形に形式変更されたが、動輪3軸の電気機関車は現在に至るまで本形式のみであり、結果的に唯一「EC」を称する機関車となっている。改称後の活躍は長くなく、ED42形が導入されると本形式は置き換え対象となり、1936年までに全車とも廃車されている。廃車後は4両が京福電鉄福井支社に譲渡され、うち2両が改造のうえ同社のテキ511形として再起した。このうちテキ511号車はEC40形のトップナンバーが種車であり、文字通り国鉄初の電気機関車であることから、1964年の廃車後は原型に復元されることになり、大宮工場で復元の後鉄道記念物に指定され、軽井沢駅構内で保存された。残る1両は1970年まで現役で使用され、黎明期の電気機関車ながら非常に長命な車両となった。
2013,08,17 軽井沢 |