140形
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 この車両は京急の前身にあたる京浜電気鉄道により1924年に20両製造されたもので、当初は51形という形式がつけられていた。大正時代〜昭和初期の車両に見られた半流線形正面5枚窓のデザインを有しているが、本車は車体が半鋼製となった。それまでの木造車両と異なり外板等に普通鋼を採用しているが、日本では前年の1923年に神戸市電で導入されたものが嚆矢であり、一般的な高速鉄道での採用はほぼ同時期に製造された阪神371形や阪急500形と並んで初の事例となっている。走行機器類は制御機器がWH製、電動機がGE製、台車がブリル製と基本的にアメリカ製のもので占められていた。なお、この時期は東京市電への乗り入れが計画されていたこともあり、軌間は馬車軌道(1372o)となっていた。また、それを踏まえて集電装置はポール集電であり、前面には救助網が備わっていた。更に連結器は当初バッファーが用いられていた(すぐに一般的な連結器に換装されている)。1925年の高輪への乗り入れに際してはこの装備を活かして北品川〜高輪間で東京市電に乗り入れたが、更に路線を北上させる計画は頓挫し、逆に横浜以南で建設が進められた湘南電気鉄道に乗り入れることになるが、湘南電気鉄道は標準軌で建設されたため、京浜電気鉄道側が1933年に標準軌に改軌することとなった(併せて市電乗り入れの廃止と品川駅構内への乗り入れが開始された)。1942年の東急への合併に際しては形式がデハ5140形に改称され、1948年の京急発足時には140形に改められている。この時期には架線電圧が直流600Vから直流1500Vへの昇圧が進み、1951年の大師線昇圧に際して全車とも電装解除のうえ制御車に改造された。この時点では前照灯が屋根上に1灯、尾灯が窓下に2灯搭載されていた。京急発足後の140形は赤、黄色のツートンカラーや赤地に白帯といった1950年代〜1960年代の標準塗装に変わりつつ、晩年は230形をパートナーとして大師線や空港線を中心に活躍したが、1000形の増備に伴う車両転配により1965年には全車廃車されており、特徴ある5枚窓を有する車両は全て消滅した。廃車後も141号車が久里浜工場で留置された後、京急(の前身である大師電気鉄道)の創立80周年を記念し、1978年に製造当時に近い姿に復元されて(車番も51号に復元)現在に至るまで久里浜工場にて静態保存されている。

 2014,05,25 京急ファインテック久里浜事業所


2021/02/15